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TOKYOから70分で行ける雪国

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-CULTURE-

8000年前からの雪と共に生きる知恵

8,000年前から現在と同じような雪が降っていたと考えられる。
約5,000年前に作られた火焔型土器が見つかる。縄文の代表的な土器を作る高度な文化がすでにあった。つまりその頃は雪国。
これだけの雪が降る地域で、人が多く住んでいる地域は世界にも類を見ない。先人たちは8,000年前から雪に埋もれる冬を越してきた。ここにしかない知恵が眠っている。その知恵こそが文化の源泉と考えている。

雪国の名産

この地域からは、江戸へ多くの産物が運ばれて行きました。その中でも織物の縮(ちぢみ)は、越後を代表する名産でした。北越雪譜の中に「雪中に糸となし 雪中に織り 雪水に洒ぎ 雪上に晒す 雪ありて縮あり されば越後縮は雪と人と気力相半して名産の名あり 魚沼郡の雪は縮の親というべし。」とあり、雪国の風土と人が織り成したものと紹介しています。二〇〇九年には、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。この縮の荷物とともに運ばれたのが山菜のゼンマイです。縮商人が大名屋敷などへの進物とし、江戸の川柳にも詠まれています。雪国のゼンマイはアクがなく、高級食材として珍重されたのです。峠を越えた荷物には水鳥の肉もありました。魚沼郡は、文字通り水鳥の棲む沼があったのです。

『越後紀行』 十辺舎一九

一九は、熊狩りを見ようと清水を訪れました。狩人は、総身を皮でつつみ、腰には短刀、手には槍の出で立ちである。出羽より来たといい、話す言葉が違って、わからない。一九が木に上ると、熊を追い込む声が聞こえ、太鼓が鳴り響き、鉄砲の音が耳をつんざいた。ませ垣まで来たところを、猟師が鉄砲と槍で仕留めた。ところが、鉄砲傷を負った大きな手負い熊が現れた、熊も必死である。猟師は、やっとのことで仕留めた。一九は「命懸けの渡世、見ているだけでもこわい」と結んでいます。

「秋山記行」 鈴木牧之

湯本の宿泊を一晩のばして、牧之は猟師の話を聞きました。猟師は熊の毛皮を背中にはおり、熊の毛皮の煙草入れを下げ、大煙管で煙草をふかした。猟師は三十歳くらいで、秋田城下から三里離れた山里が故郷といい、草津と秋山を行き来していた。彼らは鍋の二つ三つ、椀は人数分と米・塩だけで深山に三十日位寝泊りする。着るものは、猪や熊の毛皮、そして寝茣蓙が一枚。小屋は、又木を二本立て、桁を渡し、大木の皮を屋根にする。夏は蹴網という罠を仕掛けるという。

「伊藤左千夫への手紙」 長塚節

長塚節が 伊藤左千夫に出した明治四十一年九月三日付の手紙に、猟師藤ノ木長右衛門のことが書かれています。長右衛門は、幕末に大赤沢に土着した秋田マタギ上杉忠太郎の子である。十三歳にして、熊狩りに加わり、生涯に一〇〇頭の熊を突いたという。 六十四歳の時、熊に手足の骨を食い折られるほどの傷を負い、引退した。

山立根本之巻

この地域の猟師は、 古くから秋田マタギの系譜にあたると言われています。秋山の大赤沢には「山立根本ノ巻」という熊獲りの免許皆伝書が伝わっています。

ケンギ

猟師は、山に入る時に、山神(十二様)に祈りを捧げます。清津川左岸の山中では、十二様は巨大なブナの木で、大小無数の鉄の剣が奉納され、 この木はケンギ(献木)と呼ばれていました。

熊の値段

肉は、それぞれの集団のしきたりによって分配された。皮と胆は売りものでした。干し上げた胆は、湯之谷に伝わる話では、上品は金と同量の重さで取引されたといい、現在も、ほぼ同じ相場といいます。

ベエ猟

雪国には、ベエ猟があります。雪の時節、枝やワラで作ったベエを投げて、ノウサギや山鳥が、雪穴に逃げ込んだところを捕まえるのです。ベエが空を切る音をタカの羽音と勘違いして、逃げ込む習性を利用した猟です。

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